慰安婦問題に見る幸福論
韓国の朴槿恵(パククネ)大統領は経団連の榊原定征会長と会談し、11月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議において、「慰安婦問題を始めとする歴史問題の傷を癒やすため、誠実な努力が必要」と安倍首相に対して直接解決を要求したことを明らかにした。
"従軍"慰安婦の存在有無や、日韓基本条約に付随する日韓請求権協定による戦後処理については既に日本国民の多くが知るところなので、今回はそのあたりの法的な論理を抜きにしてこの問題を幸福論として述べたい。
日本は2015年をもって「戦後70年」という節目を迎える。
つまり、現在の世論を作る人間は日本も韓国もほとんどが「戦争の当事者ではない人」達なのだ。
無論、戦争に対する悲惨さを忘れることは許されないとは思うが、いつまで戦争問題を引きずるのか、という思いが強い。
現在の日本国民としては「もう関わらないでくれ」と思う人も多いであろう。
しかし何かにつけて韓国は日本に対して絡んでくる。
「賠償を支払え」
「和紙の起源は韓国だ」
「(各種スポーツで日本が韓国に勝つと)八百長だ」
そんなに日本のことを憎んでしか生きていけないのだろうか。
むしろ人を憎んで生きていくことは辛くないのだろうか。
いつまで日本と自国を比較して生きていくのだろうか。
哲学的には多くの論があるのだろうが、幸せを分解すると
・他者からの判断無しに自分で感じる「幸せ」
・他者によって形成される「幸せ」
の2つに分けることができる。
美味しいケーキを食べて幸せと感じるのか、会社で上司に認められた時に感じる幸せとの違いだ。
前者は自分が主導して幸せを作り出すことができるので、どんな場所にいようが幸せを感じながら生きていきやすい。
しかし後者は他者により自己が形成されるのであり、環境によって幸せかを左右されてしまうため不幸に陥りやすい。
韓国は後者の人種で、他国の評価、他国との比較により自国の存在価値を見出している。
「我思う、故に我あり」ではなく、「他人思う、故に我あり」なのだ。
それは整形大国であることにも起因している精神ではなかろうか。
別の切り口でも見てみよう。
マズローの欲求5段階説で見ると、韓国人の主たる欲求は4段階目の「承認(尊重)の欲求」が強い。
無論日本人や他の先進国においても承認欲求が強い個人は多いが、国家レベルで見ると求めているのは高次元のレイヤーである「自己実現の欲求」が強い傾向にある。
さすがに韓国でも低次元の欲求は現代において満たされているであろうが、マズローが定義する高次元の欲求に辿り着くまでにはまだ至っておらず、社会的にはまだ幼い精神だと言わざるを得ない。
話は慰安婦問題に戻るが、「慰安婦問題を始めとする歴史問題の傷を癒やすため、誠実な努力が必要」という発言は、低次元な幸せしか求めていない韓国の精神レベルの低さによるものではないだろうか。
パンダとしては韓国に対して「より高度な精神レベルになるため、誠実な努力が必要」だと要求したい。